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2024.03.06

能登半島地震について思うこと

能登半島地震が発生し2ヵ月が過ぎようとしています。

金沢にお住まいの業界の先輩から、「お前も何らかの役割を果たせ」とご叱責のようなお電話をいただきました。

自然災害とは予め知る由もなく、突然に襲ってくるものです。備えもなく、また想定もできませんから実に難しい問題です。

 

日本はもとより地震大国ですから、地震への備えというものは国や各自治体レベルでも行われているものですし、

地震のメカニズムを含め科学者をはじめ、専門家による事前予知のための取組みもなされてもいますが、それでも自然の力というものは人知を超えたところにあるようです。

阪神大震災の折り、私は所用で姫路におりました。

朝早くに電話で地震発生を知ることとなり、確かに揺れというものは感じましたが、あれほどの被害が出ていることとはしばらく気づかず、

テレビでの報道も時間を追うごとに被害の大きさが増す様に、ただただオロオロするばかりのこととなしました。

午前8時を過ぎた頃、会長の自宅が全壊という一報が入り、新幹線をはじめとし、公共交通機関も全滅という中で、取敢えず姫路での仕事を中断し、急ぎタクシーを探して神戸に向かうことにしました。

しかし神戸方面へ向かうタクシーも見つからず、幸いに神戸に親族がいるから、というタクシーに便乗し神戸に向かうこととなりました。

海岸線の道路は既に明石市手前あたりから寸断されており、また車列で動きが取れないという情報を得て、小野市、三木市という山側を抜けて向かうことになりました。

もちろん高速道路も寸断されておりますので、一般道を走ることとなりましたが、当時の車にはまだナビなる便利なものもあるはずもなく、

姫路を発つ時に書店で地図を購入し、タクシーの運転手さんと、ここだ、あそこだと探し物をするように東へと向かいました。

辺りが暗く成る頃、ようやく有馬を過ぎ、西宮市に差し掛かろうとした時、落石で道路が寸断され、これ以上進めないという状況となり、神戸に向かうというタクシーに別れを告げて徒歩で自宅に向かうこととなりました。

3時間ほど山道を歩き、ようやく家に辿り着いたのは夜半のこととなりました。

幸いにも自宅はマンションでしたので、建物に被害はなく、家族も無事あったことに安堵しましたが、

電気、ガス、水道はもちろん使えませんでしたから、若かりし頃使っていましたキャンプ道具を取り出し、灯油で明かりを取り、またコンロで暖をとるようなことでした。

 

取敢えず水の確保をと思い、陥没や、倒壊で寸断された道を避け、コンビニや商店を片っ端から訪ねましたが、そもそも開いている店などもなく、翌日の仕事と諦めることとなりました。

眠れない一夜を過ごし、会長宅に向かい、安全を確認した後、水の確保のため数駅先にあるホームセンターに向かい、幸いにも何本かのペットボトルを入手しました。

その矢先、京都から仕事先の方がいっぱいの水を背にし、何時間もかけて差し入れをお持ちいただきました。

また近隣にお住まいのお宅に井戸があってお分けいただくことができました。自衛隊の給水車が手配されたのは震災後3日目の朝のことになります。

生後2ヵ月になる次女のためにと、同じマンションに住む方が大阪で粉ミルクをわざわざ入手され、お届けもいただいたりもしました。

トイレ用にと横に流れる川の水汲みもまた隣人皆さんとの共同作業となりました。

数日を過ぎる頃、宅配便が機能することとなり、たくさんの水や食品が我が家を埋めることとなりました。

地震の記憶は少しづつぼやけていくようですが、一つの言葉が救いとして記憶に鮮明です。

東日本大震災の際、

「苦しみや悲しみに国民皆が長く寄り添い、常に思いをし続けること」

という陛下をお言葉でした。報道でご覧になった方も多いかと思います。

国という漠然とした概念の中に、個々人を中心としたしなやかな共同体というものの存在があります。

近隣の皆が支え合い、助け合うという相互扶助の精神は、災害にあって最も大切な役割を果たすものかもしれません。

能登半島地震でご被災の方々の一日も早いご復興を切に願い、また私たちも復興のためにお役に立ちたいと願うものです。

 

戸塚康一郎 記

 


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